紀州梅の不作が続き、国産原料の不足を背景に、中国産梅へのシフトが進むというニュースを目にした。
原料が足りない以上、「一時的に代替する」という判断は、供給不足を補うための現実的な選択肢に見える。数量や価格の安定を考えれば、そう判断せざるを得ない事情があることも理解はできる。
ただ、このニュースを読んで、どうしても拭えない違和感が残った。
それは、理屈の問題というより、感覚の問題に近い。
ここで言いたいのは、味の良し悪しや品質の優劣ではない。
「中国産は劣っている」といった話をしたいわけでもない。
そうした比較の次元ではなく、もっと根本的なところで引っかかっている。
原料不足の中で国産を中国産に置き換えるという判断は、事業継続のため、価格を抑えるため、流通を止めないための合理的な選択だろう。
売上、雇用、契約、経営判断――思想の裏側には、考えなければならない現実が山ほどあることも分かる。
それでもなお、地域に根付いた食まで、同じ論理で代替してしまってよいのか、という疑問が残る。
梅干しのように、土地の気候や人の営みと結びつき、長い時間をかけて産地として築かれてきたものまで、「足りないから別で補う」という発想で済ませてしまってよいのだろうか。
誤解してほしくないが、私は中国産のすべてを否定したいわけではない。
安価で使い勝手の良い中国製品が、日本人の生活を長く支えてきた側面があることも事実だ。
日用品や工業製品など、中国産がなければ成り立たない分野があることも理解している。
ただし、食、とりわけ日本の伝統食については話が別だと思っている。
国産を選ぶという行為は、単なる安全性や品質の問題ではない。
それは、地域を支え、産業を残し、文化を次につなぐという意思表示でもある。
さらに言えば、「中国産」という言葉に反応してしまう理由は、原産国そのものではなく、その背後にある構造に対する不安だ。
残留農薬や添加物の基準、トレーサビリティの不透明さ、制度や管理体制の違い。
これらは感情論ではなく、消費者側からは見えにくいという点に問題がある。
そして何より、「一時的な代替」という言葉が、こうした構造的なリスクを曖昧に包み込んでしまう点に引っかかる。
一度、供給や価格の安定を理由に切り替われば、その後に国産へ戻すハードルは想像以上に高い。
「一時的」が常態化していく例を、私たちはこれまで何度も見てきた。
もう一つ、どうしても触れておきたいのが、今の時代感覚とのズレだ。
物価高、円安、地政学リスク、供給網の分断。
こうした状況の中で、自国の産業を支えたいという感情――いわば愛国心に近いものが、多くの日本人の中で静かに高まってきている。
それが本当に見えていないのではないか。
そんな疑問すら浮かぶ。
私は消費者という立場でしか物事を語れない。
一方で、生産者や事業者は、生産者の論理で判断せざるを得ない。
その前提の違いは理解している。
ただ、受け取る側として言わせてもらうなら、
「価格が一時的に上がるから国産は難しい」という判断は、
今の消費者心理を過小評価しているようにも感じる。
これはあくまで私個人の意見だが、
多少価格が上がったとしても、「それでも国産を応援したい」と考えて購入する日本人は、想像以上に多いのではないだろうか。
安さだけを求める消費から、背景や意味に価値を見出す消費へ。
その変化は、すでに始まっている。
不作という非常事態だからこそ、「やむを得ない」で流すのではなく、
何を守り、何を優先するのかを考える必要がある。
国産のものが良い、という考えは感情論ではない。
食と産業を持続させるための前提条件だと思っている。
私自身、このニュースを完全に理解しきれているとは言えない。
それでもなお残るこの違和感は、多くの人が言葉にできずに抱えている感覚でもあるはずだ。
味や価格の話ではなく、どこに価値を置く社会でありたいのか。
その問いとして、この問題を考え続けたいと思っている。


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